碧南街づくりとしてお寺でヨガを始めた理由〜前編〜

理学療法士と作業療法士の夫婦shotaとmariです。shotaは緩和ケア理学療法士、栄の居酒屋cafe経営、碧南街づくりの3軸を中心に名古屋、碧南にて活動中。mariは名古屋、碧南を中心に女性のためのヨガと整体を通して活動しています。

そしてわたしたち夫婦。2017年の5月から愛知県、碧南市の東正寺で碧南街づくりのひとつとしてお寺で月1回のヨガ教室を開催させていただいています。

mariがヨガを学ぶため、ハワイ留学中、お寺の奥さんにたくさんのご協力をいただきながらshotaはお寺ヨガ教室を開催する準備を。帰国後すぐにmariはインストラクターとしての活動の場をいただくことができました。碧南お寺ヨガはただ、単に「お寺でヨガをする」だけが目的ではありません。

碧南の街づくりの一貫として活動をさせていただいています。

初めは1部のみの開催をしていましたが、少しずつ人数も増え、現在は1部2部の2レッスンに分けて開催しています。お寺ヨガで人と人とが出会うことで「一歩踏み出す勇気を得た。」そんなお声をいただいたり、「大人になって挑戦することはない。だけど、頑張る、挑戦するきっかけになった。」こんなお声をいただいたり。

スタジオでのヨガは若い女性が多くを占めていることもありますが、お寺ヨガの年齢層は本当に様々です。小学生からおじいちゃん世代までみんな一緒にヨガをします。

こどもたちが集まる機会、多世代が交流する機会でもあります。ママがレッスン中には、おばあちゃんが小さいこどものお世話をして一つの「役割」を得て社会参加する場でもあり、小さいこどもたちは、お茶をみんなに配るお手伝いをしてくれたり。

少しずつ、色がでてきました。こんな碧南お寺ヨガをお寺の奥さんと企画したshotaの碧南街づくりに関する想いをはじめて公開します。

~価値あるものは届いてこそ価値がある~

2年間まちづくりに関わってきた。半年間のまちづくり研修に通ったり、公民館でカフェを開いて健康チェックをしたり、地区の地域福祉推進会議にでたり。

でも何か違和感を感じていた。ここでのまちづくりは自己満が溢れていた。

誰も口には出さないけど、オレたちはおらが町のために良いことやってる。なんでみんな参加しないんだ?最近の若者は地域ごとに参加しない。こんなに楽しいことをやっているのに。そんな様子を色んなところで感じた。

「県道の花植え」を例にあげる。

県道沿いの歩道に花が植えてあると防犯になる。(これは参加者には伝えられていない)らしく「花を植えるので朝6時に集合してください」と。

花植えは重要だ。それは間違いない。ボランティアでやれる地域の方々には頭があがらない。

本当に尊敬している。
だけど違和感を感じる。

本当に「地域のため」って思うのであれば
本当に「まちづくり」って思うのであれば
地域住民をいかに巻き込むか?をサボってはいけない。

防犯に興味のない方に
花植えを大切と感じていない方に
まちづくりを必要と感じていない人に
届けなければいけないのだ。

価値は必要な人・届けたい人に届いてこそ価値なのだ。

でも会議に出る先輩からは
最近の若者は地域ごとに参加しないと言われる。

しかしその答えはめちゃくちゃシンプルで
楽しそうにみえないから。である。

どれだけ必要だと言われても
現代の若者はインターネットが発達し、様々な情報が入ってくるし
楽しくなさそうな情報は即シャットアウトされ目にすら止まっていない。

だからこそ大切なのは、まちづくりが必要だと思っている僕たちが
まちづくりを必要と感じていない若者に対して
どんな風にデザインして、楽しそう!参加したい!って思わせるか
届け方を工夫しなければいけない。

そう感じていた。

そんなある日お寺の奥さんに相談を受けた。

その奥さんは自分が小学校の頃から
おつとめの稽古に行っていたお寺の奥さんだ。

その奥さんから「お寺に人が集まらない」と。


自分が小学生の頃、夏休みには友達と自転車をこいで
おつとめの稽古によく行っていたものだ。


だけどその稽古にも人が集まらないと言う。
お寺離れが進んでいたのだ。

何か解決できないか?そう思った時に
奥さん真里がヨガインストラクターの資格取得に
ハワイへヨガ留学にいっていたことを思い出す。

お寺でヨガをやったら面白いんじゃないか?奥さんは乗ってくれた。

結果的にお寺には
毎回20~30人ほどの方が集まっている。

もし仮に
お寺に人が集まらないっていう社会課題に対して
お寺の歴史を勉強しよう とか、お勤めの稽古をしよう と言った時に
何人の人が集まっただろうか?

これは課題に対して、ど真ん中ストレートで勝負にいって
ホームランを打たれたような感覚。

そう、ただの準備不足なのだ。

そのバッターに打たれないために(目的)
どう打ち取るのか?(手段)をサボっているのだ。

コースを変えてもいいし
球種を変えてもいいし
タイミングを外すような工夫をしてもいい。

要は打ち取れればなんでもいいのだ。

だからこそ、真の目的は隠して
「お寺でヨガをやってみよう」としたら
ヨガをやりたかった人たちが情報をキャッチする。

500円?安い!
ハワイで習ったの?おもしろそう!

そういって結果的にお寺に人が集まる。
集まった人たちがお勤めをする お寺を知る。

真の目的は最終的な結果、得られた事でいいのだ。

魅せる物と得たい物は別で考えなきゃいけない。

今日はここまで。

〜後編〜へつづきます。